Snow Queen 4

 

どうしてこんなことになったのか、何が悪かったのか。

何も分からないまま、日々は過ぎていく。

心が氷に、なったようだった。

 

少人数制の学習ルームが多数設置されている月詠学院では、図書館で本を読むという行為自体が少ないらしい。本棚に隠れるようにして、ひっそりと調べ物をするための机が用意してあり、それぞれが邪魔にならない位置に区分けされているのがかえって助かっていた。

個性の尊重と、個人の管理は全く別物だと思う。

前者が天照館で、後者が月詠学院だとしたら、やはりここは天地ほどの差のある場所なのだなあと、そんな事をぼんやり考えていた。

勉学に必要な参考書の類はマニアックなものまで各種取り揃えられているというのに、ここには娯楽があまりに少なすぎる。

読み物用の机の中でも、特に奥の方に設置された人目につかない机の、窓の側の椅子に腰掛けながら、豊は絵本を読んでいた。

完全防音のうえ空調管理がされているから、ここにいても感じるのは窓越しの陽の光だけだ。

それがなんとも侘しい。

保管してある図書のために、紫外線カットが施された窓から差し込む光はどこか人工的だった。

人の気配すらしない、しんとした室内で、時折パラリとページをめくる音だけ聞こえる。

孤独は、ウサギを殺すらしい。

このまま心だけ、ウサギになってしまいそうだ。何も感じない、考えない、そうやって気をつけていても、息苦しさで発狂しそうになる。今はただひたすらに辛かった。

帰りたいと、思っていた。

「秋津」

静かな声は突然聞こえた。

豊はビクリと身を縮めて、恐る恐る顔を上げる。そして、不安に表情を歪めた。

「飛河・・・」

今一番会いたくない彼。

顔を見ると、どうしてもこの間の事を思い出してしまう。

アレから一週間も経っていなかった、翌日、目が覚めてみると行為の名残にまみれて寝ている自分がいた。

薙の姿はどこにもなかった。それで、だんだんと色々な事が蘇ってきて、怖くて、恐ろしくて、そして、悲しくて、どうにもやりきれなくなってしまった。

その日、豊は学校を休んだ。

部屋で一日中膝を抱えて過ごした。

その前に一も二もなくシャワーを浴びて、部屋を簡単に掃除した。汚れた衣服とシーツは捨ててしまった。

忘れてしまいたい夜。

何もなかったようにするなんて不可能だけれど、豊は必死に努力を続けている。

平常を装って、これまでと同じように、意識する事もなく、普通に、普通に・・・

薙とは、必要以上に接点を持たないように心がけて。

ミッションの通達がくだらないことだけが唯一の救いだった。それさえなければ、彼が話しかけてくることも、こちらから話すこともない。日々は平穏に過ぎていく。

豊は、薙の金色の瞳から引き剥がすようにして視線を背けた。

また絵本の本文に目を走らせながら、そ知らぬ素振りで問いかける。

「どう、した・・・なにか、用事?」

声が震えているような気がして、くじけそうになる自分を必死に励ます。

気配はしばらく立ち尽くしていたが、不意に側へ歩み寄ってきた。慌てて顔を上げると、薙は正面の席に腰を下ろしていた。

「何を読んでいる」

抑揚のない声が問いかける。

「絵本だよ」

「みればわかる、そんなもの、ここには置いていないはずだ」

当然至極の言葉に、豊は僅かに怯えながら答えた。

「うん、探したけれど見つからなかったから、区の図書館で借りてきた」

「なんだ」

「・・・雪の女王、だよ」

薙の瞳がじっとこちらを見ている。

どうやら続きを促されているらしい。見詰められているだけで、不安に胸がドキドキした。

「物語の始まりは、悪魔がねじれた鏡を作るんだ」

豊は、かいつまんで物語の概要を説明しだした。

「その鏡は映るもの全てを偽りの姿に映し出す、悪魔はそれで神様を映して笑いものにしてやろうと企むんだけど、天に届く前に鏡は悪魔の手から滑り落ちて、幾千、幾万の欠片になって地上に振りそそいだ。その一欠けらが、仲のいい二人の子供の、男の子の目の中に入り込んだんだ」

薙はおとなしく話を聞いていた。

図書館なのであまり大きな声では話せないから、自然と囁くような喋り方になる。

それは、どうにも奇妙な光景だった。

あんな事があった相手と、こんな場所で、こそこそと絵本の物語を語って聞かせてやっている。

本当なら接点を持つことすら拒みたいというのに、ここにはどこにも逃げ場がなかった。無反応で立ち去るというのも、意識しているようで返ってやりづらい。

それで、仕方なしに彼の望むまま、豊は話し続けるのだった。

「悪魔の鏡の欠片が入り込んだ男の子は、心が氷のようになってしまって、大切な人のことも、何もかも忘れてしまった」

今の俺は、と思う。

カイと逆だ、心が冷たくて、辛くて、苦しくて、大切な人たちに会いたいと思っている。

でも。

「女の子のことも忘れたんだ、それで、雪の女王が彼を迎えに来て、男の子は氷の国に行ってしまった」

なぜだか、その事を考えると胸が痛くなる。

俺はここから早く出て行きたいのに、実際その時の事を思うと落ち着かなくなる。何か、大切なものを見落として立ち去るような、そんな不安が常に付きまとう。

どうしてこんな気持ちになるんだろう。

「けれど、女の子は男の子の事を愛していた」

愛、という言葉で、ビクリと震える自分がいる。

「だから、彼を探しに氷の城を目指して旅に出るんだ」

それは決して簡単な旅じゃない。彼女には常に苦しみと絶望が付きまとっていた。

「色々な事があって、けれど彼女はくじけずに城を目指して、そしてようやく男の子と再会した」

彼を見つけたときの気持ちは、どんなものだったのだろう。

氷の城で、くじけそうな心を何度も励まして、ようやく見つけ出した彼は。

「男の子は何もかも忘れていたけれど、彼女の想いに触れて涙を流して、その時鏡の欠片が目の中から溶けて流れでてきたんだ」

そうして、彼は少女を思い出した。

女王が彼にかけていた魔法も、その時一緒に解けて消えた。

「そうして男の子は、女の子と一緒に、彼らがもと暮らしていた場所に帰っていった、二人は末永く幸せに暮らしたって」

ふう、と溜息をついて、豊は自分を見つめる視線があった事を思い出していた。

薙は空きもせず、初めと同じようにじっとこちらを窺っている。

彼にしては童話なんてものを笑い飛ばしもせずに真面目に聞いている様子が、どこか不思議だった。

豊はまた、少しだけ怯える自分を感じていた。

これ以上なんと声をかければいいものかと戸惑い、そしてその必要性が特にないことに思い当たって、絵本の上に視線を落とす。

静寂が、再び戻ってきた。

俯いていた豊には見えなかった。

薙が、うっすら失笑していた事に。

ガタン、と音がして、僅かに見上げれば薙は立ち上がって去っていく所だった。

横顔がちらりと見えて、それからすぐ背中だけになって、何も言わずに本棚の向こうへ歩いていってしまう。

その様子をぼんやり見送って、彼は何をしに来たのだろうと考えていた。

・・・会いに、来たのだろうか。

何のために?

考える事が苦痛で、豊はそれ以上考える事をやめた。

どちらにせよこんな気分ではもう読書どころではない。どこにいたって結局同じような事を考えようとしてしまうのだから、絵本は部屋に戻ってから改めて読もうと決めた。

表紙を閉じると絵が描いてある。

冷たい、氷の女王の絵。

カイの心は女王に捉えられたまま、広い広い城の中で、凍えるような氷の遊戯を一人きりで楽しんでいる。

豊はふと、薙の事を思い出していた。

そうしてすぐに表紙の絵を見えないように裏返してしまった。

 

図書室を出て、行き先も決めずに薙は歩いている。

自分にしては珍しい事だ、あの場所を離れたのだって、特に用事を思い出したせいじゃない。

そもそも図書館に用なんてなかった、ただ、顔が見たくて、気付けば足を運んでいた。

無機質な校舎内、硬質な靴音を立てて、気付けば豊と彼の話を思い出している。

悪魔の鏡すら溶かす、少女の想いとはどのようなものなのだろう。

まるで空虚な穴が開いているかのように、薙は何一つ思い浮かべる事が出来なかった。

触れ合った肌の熱さだけが、そこにおぼろげに蘇ってくるようだった。

 

魔法は解けない。

氷の城は、まだ遠い。

 

続く